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ケニスヘッダー
インタビューシリーズ 第1回

「理科実験への熱き想い」
を語る
プロフィール
戸田 一郎(とだ いちろう)先生
・1942年 富山市に生まれる
・1965年 千葉工業大学 卒業
・1974年 2002年3月 富山第一高等学校教諭
・2002年 北陸電力エネルギー科学館サイエンス・プロデューサー

理科教育の各分野で活躍される先生方を訪ね、全国の志を同じくする仲間た ち、とくに21世紀を担う若い世代へ熱いエールを贈っていただくインタビュ ー・シリーズ。
今回は、高校物理の現場で長年にわたり優れた実験器具を開発 自作し、国内はもちろん、近年世界各国の教師から実験指導を依頼される物理 実験の達人・戸田一郎先生に、いろいろお話を伺った。

(インタビュー場所 : 北陸電力エネルギー科学館ワンダーラボ )

「原風景は焼け野原と理科教師だった父の姿」

―――このインタビュー・シリーズを始めるにあたって、まず最初にお会いしたかったのが、弊社で販売させて頂き海外でも高い評価を受けている「戸田式霧箱」の産みの親である戸田一郎先生で、こんな素晴らしい先生が日本におられるのだ、その考え方や生き方を紹介したいということで、本日お伺いしたしだいです。まずは戸田先生の少年期の思い出から。
戸田先生:  思い出として強く残っているのは、絨毯爆撃をうけて焼け野原にな った富山の風景です。食べるものもなくて、朝から夜まで芋ばっかり食べて。 私の家から数キロ離れた富山駅の間の建物が全部燃えてなくなって、汽車のレ ールが見えて、途中に焼け残った電気ビルだけがポツンと見えていた。まさに なんにもないという状態の中で、幼少期に自分で針金を曲げたり、刃物で木を 削っておもちゃを作ったりして遊んでいた。なんにもなかったからおもちゃか ら自分の手でつくった。そのことで私は「素材の味」を手のうちにしみつける ことができたわけです。 もうひとつは、父の影響があります。父は小学校、中学校の理科教員をしてい ましたが、なにせめちゃくちゃに理科教育に燃えていた。父から嫌というほど 聞かされたことは「科学教育をここでがんばって底上げしないと、日本は食っ ていけないんだよ!!」ということです。いまも私は国家の力というのは科学だ と思っているし、それを将来的に結びつけるものは子供の理科教育だと思って います。父の言葉はいまでも耳の中で鳴り響いていますね。私の少年期の一番 の思い出は、空腹とそれをばねにして戦後の理科教師がもっていた強烈なエネ ルギーですね。そういう中に、私の場合うまい具合に父がいたということです。
―――ところが、そういうお父様の影響を受けて育った戸田少年は、すんなりと教師の道には進まれなかったとか。(笑)
戸田先生:
 科学・技術の分野で働きたいという意思はありましたが、あまりに も父が朝早く飛び出していったり、夜も遅く帰ってきたりして、理科教師がいか につらいものかということを子供の頃から目の当たりに見ていましたので、自 分は工業の分野で働きながら会社勤めをして、もう少し恵まれた生活がしたい と思っていました。教員の免許をとると地元へ帰ってこいと言われるから、免 許もとらないで、教師には絶対にならないぞと(笑)。
機械科を出て、大阪や横 浜で勤めたり、自分で厚木に会社を興したりして、けれど結局父の手のひらの 上で動き回っていたみたいで。結局会社をやっていくのは自分には向かないな と思ったので、腰掛のつもりで千葉で機械科の教師になったのです。ところが 教師がだんだん面白くなってきて、やるなら地元で父の教えも受けて本格的に やろうと、理科教員の免許をとりに富山大学へ通ったのです。
―――正式に教師になられて、やはり理想の理科教師像はお父様でしたか。
戸田先生:  そういう表現で落ち着いて話が出来るのは、自分が教師を退職した 今であって、現職の時には「父を理想として」なんて絵に描いたようなこと はなくて、父がいちいち教えてくれることは、もううるさくて、うるさくて(笑)。 父からは、工具の使い方から話し方から教師としての気力の充実のさせ方まで 厳しく教えられましたが、本当にうるさくて。とにかく父を乗り越えたいとい う一心で、それは理想とする教師である父を越えたいというより、うるさく言 われたくないというのが本音でしたね(笑)。
―――教師として自分を成長させていくという意味で実行されたことは。
戸田先生:  人との出会いを大切にしました。素晴らしい研究や実践をしておら れる人がいると聞いたら、その人の著書を読むだけでなく、やっぱりその人の ところへ出向いていって学ぶべきだと思っていました。いつもアンテナを高く あげて自分から積極的に外へ出ていって学ぶ。出張費がでるとかでないとか、 そんなことではなく、特に教師の場合は直接会ってその人の著書に書いてある ことだけではなく、その人の知識や実験実技、また考え方などを吸収すること が大切だと思います。

「霧箱、そして実験装置への熱い想い」

―――多くの先人や同僚との交流の中で刺激を受け、実験装置への思いも高まっていったのでしょうか。
戸田先生:  私がはじめにやったことは、教科書に載っている実験をひとつひと つ確実に自分のものにしていくことでした。自分の目の前にいる生徒に、授業 の中で教科書通りの実験を教科書に載っている装置を使って実験していく、そ の中で不満足なものがでてきた。「これでは教えられない」とか「物足りない」 とかいう思いがだんだんつのっていって、自分のアイデアを加えた実験装置を ひとつひとつ試行錯誤しながら造っていきました。 その中で、「これは!」と思ってのめりこんだのが後藤道夫先生との関係の中で知った「霧箱」でした。授業の中で生徒たちに自然放射線の飛跡を、スカッと見せられる霧箱を造りたいと、それで自分なりの改良工夫を加えながらどんどん発展させていった。そしてロンドンへ行ったとき、たまたまあちらの霧箱を見てまたショックをうけて、これを乗り越えようと思ってやってきたのです。
―――そうして、世界トップレベルと言われる戸田式霧箱を造り上げられたわけですね。霧箱に限らず、先生が実験装置というものに徹底的にこだわられた理由は、一体どこにあるのでしょうか。
戸田先生:  つまり黒板に絵を書いて「これはこうなるんだよ。こうするんだよ。」 なんて教えることがもどかしくてしょうがなかったんですよ。科学というもの は、こうなるんだということを実証して見せてはじめて科学なんです。「こうな ると決まっているのだから、とにかく信じろ!」というのは科学ではない。やは り生徒の目の前で実験を見事にやってみせることが理科教師のつとめだと思い ます。そのために、現象顕著な実験装置をつねに求め改良し、より学習効果の あがる授業をめざしていく。教科書にどんなに難しく書いてあることも、実験 を通してスカッと見せる。「おおっ、これだ!」とわからせる。それが理科教師 の一番の腕の見せ所です。しかも、感動的に見せる。美しく見せる。ダイナミ ックに見せる。小学校、中学校、高校でそれぞれのレベルに応じて、しっかり と実験をやること。そして、私の場合であれば「物理は先生面白かったよ」と 生徒に言わせて卒業させること、将来研究者になるとかならないとかは関係な く、男とか女とかも関係なく、自分が教えているものを生徒から面白いと言っ てもらえなければ、給料をもらっている意味がないと思ってやってきました。

「半歩の隔たりを」

―――最後に、いま現場で頑張っておられる先生やこれから教職を目指す学生に向けて贈る言葉があればお願いします。
戸田先生:  私は、やはり教師は生徒から尊敬されないといけない思います。尊 敬されるためにはどうすれば良いか。まず毅然とした態度をとることです。ど んなに生徒と打ち解けてもいい。教師は生徒の心にずっーと近よっていかなけ ればならない。それは必要なことです。しかし、教師と生徒の間に、半歩の隔 たりは絶対に必要です。それを「皆さんと友達になりましょう。仲良くやりま しょう。」なんていうのは違うと思う。知識とか人間の生き方というものを教え るには、やはり半歩の隔たりを保たないと。教えている内容を言葉だけでなく しっかり実験で示せるというのも、半歩の隔たりです。それから教科だけでは なく、「あの先生は熱心に教えてくれているな」ということがにじみ出るような 日頃からの精進努力が必要です。例えば、掃除ひとつとっても教師の立ち居振 る舞いがあらわれる。黒板を毎時間ぴかぴかにしておく。美しい黒板に向かっ て生徒たちが座る。シャツをズボンの中に入れさせる。ボタンをきちっととめ させる。これを絶対に守らせる。おのずと緊張感のみなぎる授業になります。
「洒掃・応対・進退・知識」という東洋における人間の守るべきひとつの価値 観があります。「洒掃」とは、身辺の整理です。水を打ち心を静めるということ。 「応対」とは、問いかけに気の入った返事をさせること。だらしない返事をし た生徒に、「性根入ってるのか!返事をやり直せ!」とやるのです。進退とは、い ま進むべきか退くべきかという判断です。相撲の世界で横綱は、少しでも負け が込んで「あれが横綱か」と言われたらすぐさま身を退かねばならない。日本 の美意識の最たるものです。その次に「知識」がくる。洒掃、応対、進退、知 識、この順番です。
―――教師としての長い経験に裏打ちされた、多くの示唆に富むお話をしていただきまして、本当にありがとうございました。


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